【大正かるた】全札公開!

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絵札 解説

あぶないよ バルカン半島 火気厳禁

ドイツを中心とするパン=ゲルマン主義と、ロシアのパン=スラヴ主義との対立は、バルカン半島での勢力拡大競争に及んだ。両陣営による一触即発の緊張状態から、同半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫妻がボスニア出身のセルビア人青年に暗殺されるというサライェヴォ事件をきっかけに、ヨーロッパ諸国は次々に戦争に加わり、第一次世界大戦が始まった。
日本は、日英同盟を口実にして参戦。中国におけるドイツの根拠地・青島と山東省の権益を接収し、さらに赤道以北のドイツ領南洋諸島の一部を占領した。

一家団欒 ちゃぶ台囲んで 楽しいな

ちゃぶ台は、四本脚の食事用テーブルのこと。基本的には脚が折りたたみ式になっているものが多い。
ちゃぶ台の普及は、それまでの家族のあり方を大きく変えることになった。すなわち、家族内の序列に従って席に座り、各自の箱膳で食事を取るスタイルから、家族みんなでちゃぶ台を囲んで食べるスタイルへの転換は、一家団欒という場を作り出したのである。ちゃぶ台には上座も下座もないため、従来の父親が一家の主として絶対的な力を持つという慣習もしだいに薄れていくことになった。

上野駅 メーデー会場 最寄り駅

メーデーは、世界各地で5月1日に行われる労働者の祭典。もともとヨーロッパでは資本家(雇い側)と労働者(雇われ側)が日頃の対立を休止して夏の訪れを祝う日であったが、近代に入り労働者側が権利を要求する運動に変わっていった。
日本の記念すべき第1回メーデーは1920(大正9年)5月2日に上野公園で開催された(この日が日曜日のため2日に開かれたという)。およそ1万人の労働者が、「8時間労働制」や「失業防止」、「最低賃金法の制定」などを訴えた。
戦後1946年のメーデーは、「飯米獲得人民大会」または「食糧メーデー」と呼ばれ、極度の食糧不足に喘ぐ約50万人が東京の宮城前広場に集まった。

越中の 女房一揆だ 米騒動

米騒動は1918年7月、富山県水橋町(現・富山市)で主婦たちが米の出荷を抗議することから始まった。当時、シベリア出兵に伴う米価高騰を狙った商人たちの米の買い占めや売り惜しみがさらに米価を高騰させることになった。さらに、大戦景気で都市労働人口が増加する一方で、農村の生産人口が減少するというアンバランスも生じていた。また、その農村では寄生地主制の進展に伴い、小作人の労働意欲の減退なども問題となっており、あらゆる要因が重なって米騒動につながったのであった。ときの寺内正毅内閣は事態を収束できずに総辞職。
なお、常軌を逸した商魂を意味する「ぼる」・「ぼったくる」という言葉は、1917年に政府が米や炭の買い占め売り惜しみを禁止した「暴利取締令」に由来するという。

面白くてためになる 大衆雑誌キング

日本の出版史上、レジェンドとして語り継がれているのが、大日本雄辯會(ゆうべんかい)講談社(現・講談社)が発行した大衆娯楽雑誌『キング』である。1925(大正14)年の創刊号でいきなり74万部を売り上げ、2年後には100万部を超えた。セールスの背景には、新聞・雑誌への広告やパンフレットを作ったり、ちんどん屋や紙芝居まで動員するといった熱烈な宣伝費の投入があった。「日本一面白い!日本一為になる!日本一の大部数 」をキャッチフレーズに、のぼりを立てて宣伝した。価格も『中央公論』などの総合雑誌が80銭だったのに対して、『キング』は約400頁(ページ)で50銭と安く、時代小説や伝記・実用知識といった大衆受けする内容も人気を集めたのである。
さらに雑誌の付録も充実していた。特に1927(昭和2)年11月号の付録『明治大帝』は狂気の沙汰。折しも明治天皇の誕生日を記念した明治節が祝日として制定されたことに伴い、講談社は総力を挙げて本文840頁、口絵16頁に及ぶ大作を編集して付録としたのである。本体をはるかに凌ぐ付録『明治大帝』、人々の度肝を抜くまさに圧巻の付録。

海軍の 汚職で沈没 シーメンス

1914年、軍需品の購入をめぐり、ドイツのシーメンス社(ジーメンス社)と海軍高官との贈収賄が発覚した事件。さらにイギリスの武器製造会社ヴィッカース社も軍艦「金剛」の建造に関して汚職事件が発覚し、ときの第一次山本権兵衛内内閣は総辞職に追い込まれた。実際に賄賂を受け取っていたのは海軍の高官であったが、山本権兵衛は海軍出身であったため、海軍全体が腐敗しているとの攻撃を受けたためである。
因みにシーメンス事件発覚の契機は、同社社員カール・リヒテルが同社の東京支店を脅迫したことであった。同社の不正を知ったリヒテルは、「不正をばらされたくなかったら金をよこせ」と脅迫したがこの恫喝行為は犯罪であるとして、逆に裁判にかけられた。裁判の結果、リヒテルは有罪となったが、調査の中で汚職事件に関わった日本海軍の幹部の名前なども明らかになり、事件は世に知られるようになったのであった。
山本権兵衛は海軍大臣時代、カレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い献立を採用して乗組員の健康を支えたという逸話もある。

きょうもコロッケ あしたもコロッケ

大正時代、三大洋食として人気だったのがコロッケ・トンカツ・カレーライス(ライスカレー)である。なかでもコロッケは、もともとはフランス料理の「クロケット」がルーツであった。クロケットは各種材料の形を整えながらフライ衣をつけて揚げた料理であるが、本来は具材にじゃがいもは入っていなかった。現在日本でコロッケといえばじゃがいもが入っているのが定番であるが、入れるようになった背景には外国船が長崎に持ち込んで広まったという説や北海道の開拓に伴って栽培が奨励されたという説などがある。
1917(大正6)年に流行した『コロッケの唄』(作詞:益田 太郎冠者)の影響もあってさらにコロッケの国民食としての定着はすすんだ。
カツレツの由来も、フランス料理コートレット(côtelette、英語ではカットレット cutlet)。

黒船屋 竹久夢二の 代表作

明治から昭和初期にかけて活躍した画家・竹久夢二は、多くの美人画を残した。独特の画風で描かれた作品は「夢二式美人」と呼ばれ、夢二自身は「大正の浮世絵師」とも称された。
『黒船屋』は1919(大正8)年に描かれた作品であり、もとはオランダ出身でパリの画家ヴァン・ドンゲンの『黒猫を抱ける女』を参考にしたといわれる。また、和服の女性は夢二が愛した女性(彦乃、あるいはお葉)と推測されるが誰かは謎のままである。
現在、群馬県には竹久夢二伊香保記念館がある。夢二自身は岡山県出身であるが伊香保在住の少女からファンレターをもらい、伊香保を訪問。以後、その風土や人情を気に入り度々足を運ぶことになり、夢二にとって大切な場所となったのである。
夢二は広告宣伝物や日用雑貨などのデザインも手がけており日本のグラフィックデザインの草分け的存在と言われる。

原始、女性は実に太陽であった

1911(明治44)年、平塚明(はる、雷鳥とも)は雑誌『青鞜(せいとう)』を刊行した。その創刊号に載せたのが冒頭の文言である。さらに「真正の人である。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。偖てここに青鞜は初声を上げた。・・・」と続く。
青鞜社は、平塚ら日本女子大学校(現、日本女子大学)の同窓生が中心となり、女流文学の発達を計り、女流の天才を生むことを目的に創設された。『青鞜』は大きな反響を呼び、女性の文学的才能の開花を期待された。1914(大正3)年に平塚が退き、伊藤野枝が主宰したが、1916(大正5)年に活動停止となった。
また、平塚雷鳥の先祖は1600年の関ヶ原の戦いで西軍側についた武将・平塚為広といわれる。

国体の 変革許さぬ 治安維持法

戦前の弾圧法規の中でも悪名高いのが1925(大正14)年に制定された治安維持法である。護憲三派内閣として成立した加藤高明内閣によって普通選挙法成立直前に立法された。目的は、国体の変革(天皇制の否定)と私有財産制の否認(資本主義を否認)を目的とする結社を取り締まることである。普選の実施による社会主義の拡大、日ソ国交樹立後の社会主義運動の高揚に備えたものであった。10年以下の懲役・禁錮の罰則であったが、1928(昭和3)年に最高刑が死刑に引き上げられ、1941(昭和16)年には予防拘禁制を導入した。戦後の1945(昭和20)年、GHQによって廃止となる。
1945年、哲学者・三木清は治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したとして逮捕、拘禁されそのまま獄死した。

サラリーマン いつかは住みたい 文化住宅

大正から昭和初期に流行した文化住宅とは、郊外に建てられたガラス戸・赤瓦の屋根のある洋風の応接間を持つ日本式の住宅(要は和洋折衷の家)。都市部への官庁や会社へ通勤するサラリーマンを中心とする中産階級の住宅である。なお、ジブリ映画の『となりのトトロ』に登場するサツキとメイの家も文化住宅風の造りをしている。
「文化住宅」という名称が最初に登場したのは1922(大正11)年に開催された平和記念東京博覧会の住宅展示場「文化村」に由来するという。文化村の募集条件としては居間・客間・食堂は必ず椅子座式という規定があり、職場では洋装でも帰宅後は和服に着替えるサラリーマンや、家にいることが多い女性は基本的に和服、という二重生活を解消し、居間中心の改良住宅を広げようとしたものだった。しかし、庶民の多くはコストの問題から畳に座って生活する在来住宅の玄関脇に一室だけ洋間を設けて「文化住宅」と称して中流を気取っていたようである。

将来は アナーキストかタイピスト

大正時代はアナーキスト(無政府主義者)の活動が目立った時代である。アナーキズム(無政府主義)とは、国家を望ましくなく不必要で有害なものであると考える思想であり、国家の廃止を訴えるのが特徴である。
日本では大正時代に入りロシア革命が発生すると大杉栄が主張するアナルコ・サンディカリズムの勢力が強まり、マルクス主義者(ボルシェビズム)との間に、アナ・ボル論争が展開されたが大杉は関東大震災の混乱下で憲兵大尉・甘粕正彦によって虐殺された(甘粕事件、1923)。 
タイピストとは、パソコンやワープロが普及する以前に印刷機のタイプライターで清書する職業。大正時代に増加した、職業婦人の代表例の一つに挙げられる。

水力が 火力をしのぐ 発電量

1912(大正元)年、水力発電の出力(23万3000kW)が火力発電の出力(22万9000kW)を超えた。
大正時代に入ると、近代産業の発展に伴って東京駅の開業、タクシーの営業開始など交通網がさらに拡充されていった。さらに電気・ガス・水道などのインフラも整備も本格化し、百貨店が登場したり洋食や洋服の普及なども含めて、今日に通じる都市生活の原型はこの頃に出来上がったのである。
電力需要の高まりに対応するためには従来の石炭を燃料とする火力発電では追いつかず、東京電燈(現、東京電力)はアメリカから導入した超長距離送電技術によって遠方の山梨県桂川水系の駒橋発電所から電気を引くことに成功した。また、1915(大正4)年に完成した猪苗代水力発電所によって猪苗代湖~東京約200kmを6万kwの送電に成功し、時代は水力発電が主流になっていったのである。

世界中 敵に回した 21

1915(大正4)年、第2次大隈重信内閣は中国における利権拡大を目指して袁世凱政権に対して二十一か条の要求を突きつけた。(1)山東省ドイツ権益の譲渡、(2)南満州・内モンゴル権益の99カ年延長と、鉄道敷設権、(3)漢冶萍(かんやひょう)公司(こんす)の日中共同経営、(4)福建省を他国に譲らず、日本の勢力範囲内にすることの承認などを要求した。第一次世界大戦で列強の目が中国から逸れた隙を狙ったドサクサ的な動きであったが、その内容は、元老山県有朋でさえ「訳のわからぬ無用の箇条まで羅列して請求したるは大失策」と述べて難色を示すほど無茶なものであった。
結局、中国は主権を侵す第五号の、中国政府の顧問として日本人を雇用することを削除して、第四号までの16条を中国は承認した。

造船所のストライキ 甲子園のストライク

1917(大正6)年は「ストライキ運動飛躍の年」といわれた。ストライキが件数でも参加人員の点でも急増した。1915年までは年間50件前後でしかなかったことや、参加人員も8,000人に満たなかったが、1917年には398件、5万7,309人に達したのである。1918年、19年とストライキはさらに増え続けた。とくに造船所、製鉄所、軍工廠、大鉱山など日本資本主義の根幹をなす大経営で争議が頻発し、労働組合が結成された。このような背景にあったものとして、第一次世界大戦を機に日本資本主義が急速な発展をとげ、これに伴って労働者階級が量的、質的に成長したことが挙げられる。
現在、阪神タイガースの本拠地であり高校野球の聖地でもある甲子園球場は1924(大正13)年に竣工式が行われた。これまで豊中、鳴尾(なるお)で開催されていた全国中等学校優勝野球大会(高校野球の前身)はこうして甲子園に移ったのである。

大都会 お洒落に着飾る モガとモボ

1920年代(大正9~昭和4年)の都会に、西洋文化の影響を受けた男女をそれぞれモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)という。日本は第一次世界大戦に伴う大戦景気によって豊かになり、産業発展が女性の進出を加速させ職業婦人も増加していった。上流階級のものとされていた洋装もしだいに若い男女に広がるようになり欧米の流行や風俗の一部を取り入れるようになった。                       モガの典型的な特徴としては、スカート丈はひざ下で釣鐘型の帽子(クロシェット)をかぶり、髪型はショートカット(ボブカット)、引眉、ルージュや頬紅などの化粧を施すものであった。一方、モボは山高帽子にロイド眼鏡、ダブダブなセーラーズボンなどが挙げられる。
銀座をブラブラと闊歩する「銀ブラ」という言葉もこの時期に使い始められたと考えられる。

青島は 断じて領有すべからず

第一次世界大戦が勃発すると、これを「天祐(天の助け)」とした日本は日英同盟を理由に強引に参戦を正当化した。敵国ドイツの、中国における根拠地である山東半島の青島を占拠した日本軍に多くの日本国民も喝采を叫んだ。多くの新聞は政府・軍部を支持したが、『東洋経済新報』の石橋湛山はこれを否定、「青島は断じて領有すべからず」という社説を掲載し、浮かれる日本国民に警鐘を鳴らしたのである。石橋湛山は、朝鮮や台湾などの植民地や権益の放棄を主張し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱したことで知られる。
戦後、石橋湛山は第55代内閣総理大臣に就任した(1956年12月~57年2月)が、病気のため在任期間わずか65日で退陣した。

つらい過去 乗り越えていく 水平社

1922(大正11)年3月、全国水平社は被差別民の差別解消のために結成された。その創立の宣言文は、中心人物の1人である西光万吉が起草したものであり「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結んでいる。被差別民の自主的で絶対的な解放と水平・平等な社会の実現を叫ぶ綱領は、阪本清一郎らが起草した。
西光万吉は組織の旗として、黒地に赤の荊をめぐらした荊冠旗を考案したが、これは黒が暗黒の差別社会を、赤の荊は受難を象徴したものである。
全国水平社は絶対的な解放を求めて糾弾闘争を強めたが、第二次世界大戦中は活動を停止した。戦後、1946(昭和21)年に部落解放全国委員会として復活、1955(昭和30)年には部落解放同盟と改称した。

天ぷらが 大好物の 喜劇王

“世界の喜劇王”チャールズ・チャップリンが日本の映画雑誌にはじめて紹介されたのは『キネマ・レコード』の1914(大正3)年7月号だったという。チャップリンはその得意な変装とコミカルな歩き方から「変凹(へんぺこ)くん」という愛称で呼ばれ、同年からチャップリンの映画も日本で公開されるようになるとたちまち大人気となっていった。
チャップリンは、日本人の真面目で誠実な気質を愛して自宅の使用人に日本人を多く雇い入れていた。またチャップリンは来日するたびに、天ぷらを好んで食べた。一度にエビの天ぷらを30本も平らげたこともあり、「天ぷら男」とあだ名される始末であったという。
初来日の1932年5月は、五・一五事件発生時であり、実はチャップリンも犬養毅首相ともども暗殺リストに載っていた。しかし当日、犬養首相との会食をキャンセルして相撲観戦に行っていたため、九死に一生を得ることになったのであった。

虎の門 ステッキ銃が 待ち伏せ中

1923(大正12)年12月27日、東京市麹町区虎ノ門外で皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)がアナーキスト(無政府主義者)難波大助に狙撃を受けた暗殺未遂事件が発生した。難波はステッキ仕込みの散弾銃で皇太子の乗る自動車を撃った。弾丸は自動車の窓ガラスを割り、侍従長が軽傷を負ったが皇太子は無傷だった。犯人の難波はその場で取り押さえられ、大逆罪で起訴され翌年11月に死刑となった。
山口県の名家に生まれた難波は中学を中退後、上京して東京の貧民街を目の当たりにした。こうして社会問題に興味を持ちしだいに社会主義思想が高まり、暴力的な無政府主義思想を持つようになっていき、ついに犯行に及んだのである。
この事件の影響は大きかった。当時の第二次山本権兵衛内閣は引責総辞職し、警護責任をとるということで警視総監も懲戒免官となった。難波の父で衆議院議員だった作之助は辞職後、断食して餓死、難波の小学校時代の校長と担任も辞職した。

長かった ようやく実現 普通選挙

納税額や教育程度などを選挙権の要件としないで、一定年齢以上のすべての成年に選挙権・被選挙権を与える普通選挙は、1925(大正14)年、護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)の加藤高明内閣によって衆議院議員選挙法の改正という形で実現した。これによって納税資格を撤廃して25歳以上の男性に選挙権を、30歳以上の男性に被選挙権が認められた。有権者数は人口の20.8%と急増した。この選挙法改正に基づいて行われた1928(昭和3)年の初の普通選挙では、無産政党から8名の当選者が出るなど、政府は衝撃を受けた。
政府は共産主義者の社会進出を警戒して普通選挙法と同時に治安維持法を制定していたが、初の普通選挙の結果を受けて三・一五事件で共産党員の大量検挙を行い、さらに治安維持法の最高刑を死刑に引き上げるなどの対応に迫られた。

日本初 世界で羽ばたく バタフライ

第一次世界大戦まっただ中の1915(大正4)年、イギリスのロンドンで公演されたオペラ『蝶々夫人』の舞台に日本人ではじめて立ったのが三浦環であった。『蝶々夫人』は作曲家プッチーニによって作られたオペラであり、長崎を舞台に没落藩士の令嬢である蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛を描いた作品である。
東京出身の三浦は、3歳で日本舞踊を、6歳で長唄を習い始めた。その後、東京音楽学校で滝廉太郎からピアノを習うなどして同校を卒業、ロンドンで上演された『蝶々夫人』出演して成功を収めた。さらに欧米各地の大歌劇場で蝶々夫人を主演し、世界的名声を得た。1920(大正9)年に三浦をローマに招いた作曲家のプッチーニは、「あなたはもっとも理想的な蝶々さん」と絶賛した。1936(昭和11)年に帰国後は、日本で活躍した。『蝶々夫人』の主演は2,000回に及んだ。

抜け道だらけの 工場法

日本で最初の労働者保護法とされる工場法は1911(明治44)年に公布された。最低年齢12歳、労働時間12時間、女性・年少者の深夜業禁止などを盛り込んだものであったが、実際は15人未満の工業には適用されず、期限付きで14時間労働を認めるなど、不備な点が多かった。しかも紡績・製糸業資本家の反対で、実施は1916(大正5)年まで延期されるなど、運用には紆余曲折があった。繊維業では労働者をなるべく長時間労働させることで生産量を高めたいという狙いがあったため、労働時間の短縮などはもっての外、と猛反対したのである。
また実際は、その制定の目的としては今日の労働基準法のように「労働者の保護」という性格のものではなく、人的資源としての「労働力の保護」という思想の元に制定された法律だったといえる。

願わくは 舞台に立ちたい 宝塚

現在も人気の宝塚歌劇団の創設は大正時代に遡る。
阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道創始者・小林一三が、三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊から着想を得て、1913(大正2)年に結成した宝塚唱歌隊がそのルーツである。小林は鉄道を中心とした都市開発、流通事業、観光事業などを総合的に進める私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げたアイディアマンであった。1913(大正2)年、全国中等学校優勝野球大会の開催を提唱したり、1920(大正9)年には梅田駅1階を白木屋に賃貸して日用品の販売を行った。また1929(昭和4)年には阪急百貨店を開業、1937(昭和12)年には東宝映画を設立するなど多方面に活躍の場を広げた。のちに政界入りし、戦前は第2次近衛文麿内閣(1940~41)の商工大臣を、戦後は幣原喜重郎内閣(1945~46)の国務大臣を務めた(後者は公職追放となったが)。

野枝(のえ) 房枝(ふさえ) 菊栄(きくえ)とやたら「え」が多い

日本史上に名を残している大正時代の女性は、「○え」といおう名前が多い。当時この「○え」という名前が人気だったかというとそうでもないようである。大正の前半は、「千代」、「千代子」などが人気であり、後半になると「文子」、「幸子」、「久子」なども上位に食い込んでいるが、「○え」は大正年間を通じてトップ10には入っていない(明治安田生命調べ)。
伊藤野枝(1895~1923)は、はじめ青鞜社で活動していたが内縁の夫・大杉栄とともに無政府主義運動に身を投じたが、関東大震災のときに甘粕事件で虐殺された。
市川房枝(1893~1981)は、女性の政治活動をめざす新婦人協会の設立に関わり、治安警察法第5条の改正を実現した。
山川菊枝(1890~1980)は、山川均の妻。社会主義同盟に入り、のちに女性の社会主義団体である赤瀾会を設立した。また市川房枝とともに婦人参政権獲得期成同盟会をつくった。

はじめから 足並み揃わぬ 国際連盟

国際連盟は1920(大正9)年に、アメリカ大統領ウィルソンの提唱で成立した史上初の国際平和機構である。第一次世界大戦中の1918(大正7)年、ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表し、そのなかで国際的平和維持機構の設立を呼びかけたことがきっかけである。しかし提唱国のアメリカ国内では、従来のモンロー主義(大陸との相互不干渉主義)を唱える勢力もつよく、上院では国際連盟の加盟に否決という結果になってしまった。こうして米・英・仏・日・伊のいわゆる五大国のなかで、アメリカは加盟を見送ることになったのである。
他にも総会の議決方法が全会一致方式であったり、国際紛争解決のための武力を持たないなどの問題を抱えていた。
日本は事務局次長に新渡戸稲造が就任するなど、中核的役割を担っていたが1931(昭和6)年の柳条湖事件を契機とする満州事変の収拾をめぐって次第に国際社会から孤立。リットン調査団の勧告をも拒否して1933(昭和8)年に脱退した。

昼時に 都市を襲った 大震災

1923(大正12)年9月1日土曜日の午前11時58分、関東地方南部を中心とするマグニチュード7.9の関東大震災が発生した。東京・横浜・横須賀などで大火災が発生したため、当時としては日本史上最大の地震被害となった。電気や水道などのライフラインは完全に麻痺し、政治・経済・社会は大混乱に陥った。「富士山が爆発する」、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んだ」など、さまざまな流言が飛び交い、政府は9月2日、戒厳令を施行して軍隊を出動させるに至った。この出来事は海外にも伝えられ、40以上の国から救援物資や義捐金(ぎえんきん)が寄せられた。
この震災の混乱下で朝鮮人虐殺事件がおこり、「社会主義者が朝鮮人を扇動した」との噂が流れるなか、憲兵大尉の甘粕正彦らが無政府主義者の大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、甥の少年を東京憲兵本部で殺害するという甘粕事件が起きた。なお、甘粕は軍法会議で懲役10年の判決を受けたが、3年で出獄して満州に渡った。

プロレタリアの小林多喜二

大正・昭和初期に無産階級である労働者や農民の現実を描いたプロレタリア文学の第一人者とも言えるのが小林多喜二である。秋田県の小作農家の次男として生まれた多喜二は4歳の時に伯父の計らいで一家をあげて小樽(おたる)に移った。伯父の工場で働く傍ら学費を受けて小樽高等商業学校(現、小樽商科大学)に進学、在学中から創作活動に親しんだ。この頃から自家の窮乏や当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動にも参加している。
1928(昭和3)年に起きた三・一五事件を題材に「一九二八年三月十五日」を『戦旗』に発表し、作品中の特高(特別高等警察)による拷問シーンの描写が特高の不興を買い、のちに自身が虐殺される伏線になったという。翌年、代表作となる『蟹工船』で世間の注目を集めたが、同時に特高のマークはよりきつくなった。日本共産党に入り、非合法活動中に逮捕、1933(昭和8)年、築地署に連行されて拷問により死亡した。

平民宰相 原敬

原敬は1856(安政3)年、盛岡藩(現、岩手県)の武家に生まれた。戊辰戦争で盛岡藩は賊軍となり、原家も土地・屋敷や家財を売却せざるを得なくなり、士族という籍も失ったという。若い頃は新聞記者などジャーナリストとして働いていたが、立憲政友会に入党、政界入りを果たした。
1918(大正7年)には寺内内閣の総辞職後、第3代立憲政友会総裁として、家族の爵位をもたない最初の首相として内閣を率いることになった。原内閣は内政において、①教育の改善整備、②交通通信の整備拡充、③産業及び通商貿易の振興、④国防の充実という「四大政綱」を掲げた。こうした政策の実現には積極的な財政支出が大前提となるが、選挙区を大政党に有利な小選挙区制に改めるなどして支持固めを強めた。
人々は原内閣に対して普通選挙の実現を期待していたが、結局は納税額を3円に引き下げるにとどまった。こうしたことが恨まれ、1921(大正10)年11月に東京駅で刺殺された。

北欧を 足袋で走った 金栗四三

日本が近代オリンピックに初出場を果たしたのは、1912(大正元)年にスウェーデンで開催されたストックホルム大会である。日本代表は2名で、陸上競技・短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三であった。三島は準決勝で棄権し、地下足袋で走った金栗もレース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱された。金栗が意識を取り戻したのは翌朝であり既に競技は終わっていた(記録上は棄権扱い)。そのため現地では「競技中に失踪して行方不明になった日本人」として有名になった。時は流れて1967(昭和42)年、金栗はストックホルム五輪開催55周年記念式典に招待された。記録がなかった金栗は、オリンピック委員会の計らいで競技場をゆっくりと走りゴールした。「日本の金栗、ただ今ゴールイン。タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされ、長いマラソンは終わったのである。

丸ビルは 東洋一のビルヂング

1923(大正12)年2月、東京駅前に建設された丸ノ内ビルヂング(通称丸ビル)は鉄筋コンクリート造りで当初地上8階、地下1階でのちに1階ずつ増築され、「東洋一のビル」といわれた。内部には、日本ではじめてビル内を自由に通り抜けられる十文字のショッピングモールを作るなど斬新な構造も話題を呼んだ。丸ビルの完成により、日本のオフィス街の代表的なブランドが確立し、「丸の内に本社を置くことが一流企業の証」と認知されるようになっていった。完成してわずか半年で関東大震災が発生したが、丸ビルは倒壊を免れた。
昭和に入ると、道三町・永楽町・八重洲町と呼ばれていた町名が「丸の内」と改名され、順調に発展を遂げていったが1945(昭和20)年の東京大空襲では壊滅的な打撃を受けた。
戦後の復興の中でも丸の内の役割は変わらなかった。1952(昭和27)年には「新丸ノ内ビルヂング」として、再建された。

美濃部博士の 機関説

天皇機関説とは、東京帝国大学教授・美濃部達吉らが唱えた憲法学説である。その主旨は、法人としての国家が統治権の主体で、天皇は国家の最高機関として内閣など他の機関からの輔弼を受けながら統治権を行使する、というものであった。天皇機関説は1900年代から1930年ごろまで憲法学の通説とされ、政治運営の基本的理論とされて定着していた。
この天皇機関説に否定的な立場をとったのが、天皇主権説をとる上杉慎吉らであった。同じく東京帝大教授であった上杉は、国家の主権・統治権は天皇に属し、国家と主権を有する天皇の権力行使に制限はない、と主張して美濃部と論争を繰り広げた。
1935(昭和10)年になる貴族院で菊池武夫が美濃部の学説を反国体的として非難し、政府の取締を要求する運動を起こして政治問題に発展した。これに対しての岡田啓介内閣は、「日本は古代以来、天皇中心の国家であり天皇が主権を持っていることは明白」とする国体明徴声明を出して天皇機関説を否定した。

無駄遣い お札を燃やす 船成金

第一次世界大戦中の好景気(大戦景気)でにわかに巨利を得て蓄財した人を、将棋の駒にたとえて「成金」といった。鉄と船と株で大富豪となった場合が多かったが、戦後恐慌が起こるとその多くは没落した。和田邦坊の描いた、料亭の玄関で100円札を燃やす成金は有名だが、この100円札は現在の約20万円程度といわれる。
船成金の中では、とくに内田信也が知られる。三井物産の写真だった内田は退職して汽船1隻をチャーターし、神戸に事務所を設立した。大戦景気に乗じて造船所などもつくり、1919(大正8)年には18隻の船を所有する船成金に成長した。神戸の須磨に敷地面積5,000坪の須磨御殿を築き、政財界の要人を接待した。鉄道事故に遭った際、「俺は神戸の内田だ!金はいくらでも出すから助けてくれ!」と叫んだという逸話がある(本人は、金はいくらでも出すとは言っていないと回想)。なお、内田はのちに衆議院議員となり鉄道大臣・農林大臣なども務めた。

明治に殉じた 乃木大将

1912(大正元)年9月13日、明治天皇の大喪(たいそう)の礼が行われたこの日の午後8時頃、明治時代を軍人として駆け抜けた陸軍の乃木希典が夫人とともに自害した。明治天皇への殉死である。
乃木の名前が一躍有名になったのは日露戦争における旅順攻略戦であった。1904(明治37)年、乃木は陸軍大将として旅順要塞攻略のため、遼東半島に上陸した。日清戦争後の下関条約によって一度は日本が清から割譲された遼東半島は、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって返還を余儀なくされたが、その後ロシアは自ら旅順を事実上奪い、要塞に変貌させていった。日露戦争が始まると、日本陸軍は旅順要塞にこもるロシア軍に攻撃を行った。しかしその攻略は容易ではなく、乃木は突撃を繰り返しては部下を多く失った。最終的には旅順を攻略したがその指揮や作戦をめぐって乃木に対する評価は賛否両論分かれるところとなった。乃木の殉死後、京都・山口・栃木・東京・北海道など各地に乃木神社が建立された。

もともとは アメリカ生まれの 福の神

陸軍の軍人で総理大臣にもなった寺内正毅は、その風貌から「ビリケン」とあだ名された。とがった頭頂部と細くつり上がった引目、口角を上げて微笑む表情が特徴的なビリケンは、もとはアメリカからやってきた福の神である。1908年、アメリカの女性芸術家フローレンス・プリッツが、夢の中に出てきた神様をモデルとして制作したのが起源と言われる。その後はシカゴのビリケンカンパニーという会社がグッズを制作、販売して世界に広まっていった。日本では1911(明治44)年、大阪の繊維会社が商標登録を行い、翌年、大阪通天閣に併設された「ルナパーク」という遊園地にビリケンの像が安置された。以来、代を重ねて現在は3代目となっている。
ビリケンの足のウラをなでると御利益がある、と言われ、通天閣は多くの参拝客(観光客)で賑わっている。
なお寺内正毅は見た目だけでなく、性格的にも非立憲内閣であったことからも非立憲(ビリケン)と呼ばれた。

“やあ元気?” ニコポン首相 桂太郎

桂太郎(1847~1913)は長州出身の陸軍軍人であり、3回の組閣経験がある政治家である。山県有朋の後継者として軍部・藩閥官僚勢力の維持に努めた。立憲政友会を率いる西園寺公望と交互に政権を担当する「桂園時代」を築いたことでも知られる。政党を代表する西園寺と比べると藩閥勢力の桂は旧態依然のイメージもあり、後世の人気はあまりない。特に、第三次の内閣を組閣するにあたって、宮中と府中の別を乱したことは力にものを言わせてやりたい放題というダーティーな印象を強くした。結局、尾崎行雄や犬養毅らが「閥族打破」を叫んで第一次護憲運動を展開、桂内閣は国民の敵役となってしまった。
政治家としては損な役回りが多い桂であるが、一個人としては人柄の良さを表すエピソードもある。背が低いうえに頭が大きく、腹も大きく膨れていた桂はその風貌から「大黒様」と呼ばれたり、いつもニコニコ笑顔で誰彼構わず肩をたたいて声をかけることから「ニコポン」と呼ばれ親しまれた。

猶存社 大川周明 北一輝

猶存社は、1919(大正8)年に国家主義者の大川周明らが設立した国家社会主義系右翼団体である。通常の社会主義は、天皇制をも否定するが、天皇制の下に社会主義国家を作っていくというのが国家社会主義の思想である。
大川はもとは老荘会という思想団体に所属していた。この会は堺利彦などの左翼や高畠素之のような国家社会主義者、そして大川のような国家主義者などあらゆる思想を持った人たちが混在していた。猶存社はそこから右翼的な革新を目指す団体として派生していった。また『日本改造法案大綱』で青年将校のカリスマとなっていた北一輝も大川に誘われて行動をともにするようになった。
なお北一輝は1936(昭和11)年の二・二六事件で決起した将校らの理論的指導者としてその思想と行動に影響を与えたとみなされて死刑となった。大川は、戦後の東京裁判で東条英機の頭をたたいた(精神異常者ぶった演技説も)話は有名。

吉野作造 民本主義の 提唱者

美濃部達吉の天皇機関説と並び、大正時代の政党政治に理論的根拠を与えたのが東京帝国大学教授・吉野作造が唱えた民本主義である。吉野は1916(大正5)年、『中央公論』に「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」を発表した。その論旨は、主権の所在はどこにあるにせよ政治の目的は民衆の福利にあり、政策決定は民衆の意向によるとして政党内閣制と普選の実現を説いたものであった。主権在民の民主主義とは一線を画し、主権在君の大日本帝国憲法のもとで民衆の政治参加を主張した点は予想される批判をかわすことになった。
1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生した際には、火災に遭った研究室と図書館から貴重な資料を取り出そうと試みたが火勢が強く、諦めざるを得なかった。炎を見つめ立ち尽くす吉野の頬には涙が流れていたという。

『羅生門』 下人の行方は、誰も知らない

芥川龍之介の代表作の一つ『羅生門』の最後の一文。タイトルの由来は平安京の正門の羅城門からとっている。正式には羅城門だが、羅生門と表記されることも多かった。
平安京にあった羅城門は『日本紀略』によれば816(弘仁7)年8月に大風によって倒壊したと記されているが、その後に再建された門も980年7月の暴風雨でまた倒壊したという(『百錬抄』)。『今昔物語集』によると倒壊前にすでに朽ち果てており、門の上層には死体が捨てられていたという。
なお“巨匠”と呼ばれた映画監督・黒澤明は1950(昭和25)年に映画『羅生門』を制作、公開したがこれは芥川が1922(大正11)年に発表した短編小説『藪の中』を取り入れている。黒沢はこの『羅生門』で第12回ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞し、日本映画の存在そのものを国際的に認知させるきっかけを作った。

陸軍がやりたい放題 武官制

1900(明治33)年に制定された軍部大臣現役武官制は、陸軍の政治上の道具となった。気に入らない内閣はこの制度を利用して潰したり、そもそも成立を阻止したり・・・とやりたい放題を繰り返したのである。
同制度は、陸・海相は現役の大将・中将からしか任用できないというもので、軍部に対する政党の影響力を阻止することが目的であった。1913(大正2)年、第2次山本権兵衛内閣において現役規定を削除し、予備役・後備役まで就任枠を拡大した(しかし、実際に就任例はない)。その後1936(昭和11)年、二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣で現役規定が復活した。
陸軍の悪用例としては第2次西園寺公望内閣の陸相・上原勇作が二個師団増設問題で単独辞任したことや、1937年に宇垣一成が陸軍から陸相の推挙を得られず組閣できなかったこと、1940年米内光政内閣が畑俊六陸相の単独辞任で総辞職したことなどがあった。

ルーティン化した 憲政の常道

憲政の常道とは、1924(大正13)年の加藤高明内閣から1932(昭和7)年の犬養毅内閣まで、衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を担当することになった慣例をいう。第一党が総辞職後は第二党に交代する。内閣の失政による内閣総辞職が条件のため、首相の体調不良や死亡による総辞職の場合は、与党の後継党首に組閣の大命が下される(例として加藤高明首相が病死したあとは同じ憲政会の第1次若槻礼次郎内閣が成立。また浜口雄幸首相が狙撃されたあとは同じ立憲民政党から第2次若槻礼次郎内閣が成立したことがあった)。このように昭和初期に立憲政友会・立憲民政党が拮抗して、交代したが、1932年の五・一五事件で犬養内閣が倒れ、挙国一致内閣の斎藤実内閣が成立したことで憲政の常道は終止符が打たれた。
五・一五事件で襲撃された犬養は軍の将校に対して「話せば分かる」と諭したが、将校は「問答無用」と引き金を引いた。まさに議会重視の政党政治が終わり軍部の台頭を物語る一言。

麗子像 娘は 父より有名人

大正・昭和の文化作品として多くの教科書や図表に掲載されている「麗子像」。おかっぱ頭でにっこり微笑むその姿のインパクトは大である。一方で、作者である麗子の父についてはあまり知られていない。麗子の父である洋画家・岸田劉生は、東京に生まれた。白馬会絵画研究所に入り外交派を学び、第4回文展に初入選を果たす。後期印象派の影響を受けるがしだいに写実主義に感化されたものや、宋や元画に影響された東洋的作風へと変化していった。
岸田劉生の性格は極度の潔癖症で、汚物が腕に付着したときは「腕を切り落とせ」と錯乱して周囲を困惑させたこともあったという。また、くしゃみをしただけで解熱鎮痛剤を飲んだり寒いときには布団を5,6枚もかけたりした。トイレでは紙を大量に使うなどの神経質を物語る逸話が多くある。癇癪持ちで、すぐに周囲に当たり散らすなど、結構な面倒くさい人だったようである。

“ろうそく”と呼ばれた加藤友三郎

加藤友三郎は、その痩せた風貌から“ろうそく”と呼ばれたが、決して軽んじられるべき人物ではない。日露戦争の日本海海戦では、バルチック艦隊からの砲弾が降り注ぐ中、連合艦隊司令長官・東郷平八郎とともに旗艦「三笠」の甲板に出ずっぱりで全軍の指揮に当たり、部下の士気を鼓舞した。
また、加藤はワシントン会議の全権として海軍軍縮会議に臨んだ。当時、日本は八・八艦隊計画がすすめられおり、諸国は日本に“好戦国”という悪印象を抱いていた。しかし加藤は、国際情勢の空気を絶妙に読みとり、「国防は軍人の専有物にあらず」と冷静に国力と状況を分析して軍縮条約に調印。我を張らず感情的にならない加藤の判断は、それまでの日本のマイナスイメージの払拭に成功した。この軍縮条約調印は、各国の記者からも賞賛され、加藤は“危機の世界を明るく照らす偉大なろうそく”と見直されたのである。

ワシントン 軍縮条約 結びます

1921(大正10)年11月から1922(大正11)年2月にかけて、アメリカ大統領ハーディングの提唱で開かれたのがワシントン会議である。呼びかけたアメリカのねらいは、大きく2つあった。1つは、建艦競争による自国の財政負担を軽減すること、2つめは日本の進出を防ぐことである。特に1つめであるが、これは自国だけが建艦をやめると他国に比べて弱体化してしまうので他国との連携が必要であった。つまり、他国を誘って一斉に建艦競争をやめる方向性を打ち出すことがその最善の方法であった。1922年に、アメリカは英・日・仏・伊を誘って5カ国間で主力艦(戦艦・巡洋艦など)の総トン数保有比率を英米5:日3:仏伊1.67と規定する軍縮条約を結ぶことに成功した。これはどの国も海軍にかける財政負担が軽減され、かつ勢力均衡を維持することが出来たので歓迎された。これまで海軍の軍拡を目指していた日本の「八・八艦隊計画」は挫折することになり、アメリカ第2のねらいも果たされたのである。